シガーキス

呼び出しを食らったのは季節が冬から春に変わる中途半端な気温の夜。

BARのネオンや遅くまで煌々と灯るビル街の色気のない光を頼りに指定された店に歩を進める。普段の服装では些か入りづらい高級店、仕方なく自宅のクローゼットからシックなトレンチコートを引っ張り出し、ブーツのヒールを鳴らしながら渋々向かう事にしたのは今日の18時過ぎだったか。

仕事の予定を何処で把握してるのか知らないが、用事が終わったと同時のタイミングでスマホに連絡を寄こしてきたのは、組織で”悪魔”と呼ばれている俺の相棒だ。

「ハロー、ダーリン♡」

「今夜空いてるか?空いてるよな。前回頼まれてた案件の情報を渡したいんだが、いい店の席が取れたんだよ。今夜19時にその店で待ってるから来てくれるよな?」

断られる事を事前に回避しようと畳みかけてくるのはいつもの事だが仕事を盾にされてしまえば断る事も出来ずめんどくさそうに了承する。

電話口からは40を越えているとは思えない嬉しそうな声色が響き、最後にリップ音を数回響かせたところで通話は終了した。


日が沈むとまだ若干の寒さが残る街中を抜け、呼び出された店に着いたのは予定時刻の10分前。普段から遅刻が嫌いなのは仕事柄ではあるが、少しでも遅れようものなら来てくれないかと思っただのとぶつくさ五月蠅くなるのは安易に予想がつくからだ。

高級店らしく入り口にはガードマンが一人、近づけば名前を求められる。指定されていた偽名を口にすれば、すんなりと重々しい入り口は開かれ赤い絨毯の敷かれた店内へ案内される。

オープンスペースには軽やかなジャズが流れカウンターで歓談を楽しむ客や、仕切りを使った簡易な個室で酒を交えながら商談を進める者の姿が見て取れる。賑やかな様子を横目で見ながら更に歩を進めれば一番奥のVIPルームへと案内された。

ある程度部屋に近付けば案内のスタッフにチップを渡し部屋から遠ざける。あからさまに好待遇ですと言わんばかりの重厚な扉を開けば、室内で上機嫌にソファに座る男が目に入った。

扉が開く音と同時に顔を上げこちらを見つめる金色の瞳、腹の立つほど美しく伸ばされた濡羽色の長髪、ソファの前にあるテーブルにぶつかるのではないかという程すらりと伸びた長い脚、年齢を感じさせない端正な顔立ち、黙っていればどんな堅物でも一晩で落としてしまう程恵まれた見た目の男が、俺を見た途端に破顔し立ち上がってこちらに近付いてくる。

「お疲れ倭、随分子洒落た出で立ちじゃんか、俺の為?」

『寝言は寝て言え馬鹿野郎、こんな高級店普段着じゃ来ねぇよ』

仕方なく着ていたコートを脱げば甲斐甲斐しくさも当たり前かの様に善正はそれを受け取りハンガーラックへ掛ける。身軽になった俺に慣れた手つきで腰に手を回そうとする腕に制止をかけ、互いの身体の間に距離を保つ。しなやかな指も仕草も吐息さえ、全てコイツの武器であり商材、少しでも気を許せばあっという間に腕の中に落ち、並みの輩ではこいつからの”お願い”は断れないだろう。

「つれないぜダーリン」

『一々付き合ってられっか、仕事の報告に呼びつけたんだろ』

「勿論、それが本命だが…俺に多少付き合ってくれてもいいだろ?女なら泣いて喜ぶぜ?」

『上っ面だけで落ちるような女と一緒にしてんなら帰るぞ』

「ごめん、すいませんでした帰らないで」

百戦錬磨の色男が破顔する様は早々見れないだろうが、散々見飽きた情けない顔に軽く平手を入れるとそのまま先ほどまで善正が座っていたソファの向かいに深く腰掛ける。座り心地の良い革製のそれに行儀悪く足を組み一つ息を吐けば、テーブルに置いてある仕事の報告書を手に取って確認作業に入る。

分かりやすく纏められている書類に目を通す。パラパラと紙が指の腹で捲られていく音と、僅かに聞こえるジャズの音色が部屋を満たし、一言も喋らない空気が全く不快に感じないほどにゆっくりと流れていく。

ある程度意見を交え一息つくかと顔を上げる、初めから頼んであったのか、善正は二人分のロックグラスに用意されていたアイスボールを入れ琥珀色の酒を注ぐとお互いの前に置いた。少し薄暗い照明に艶っぽく反射する氷とウィスキー、グラスを手に取れば燻製したかのような芳醇な香りが鼻腔を心地よく擽った。

『…ボウモアか、悪くねぇな』

「だろ?今日の肴に丁度いいと思ってな。」

そう言い終わるとテーブルにカツンと金属が置かれる音が響く、部屋の照明に淡く照らされるソレは、高級煙草として名高いトレジャラーブラックだ。日本で販売されている紙煙草やピースの缶よりも3倍以上の値段はする代物。一般人なら購入して当たり前に吸う事に若干のためらいの出る値段だろう。薄いアルミ製の蓋を開ければ、特徴的な黒い紙煙草が顔を出す。吸い口の部分はギラギラとゴールドに光り、贈り物にするのならこれ以上ない派手さを持っていた。

「今日の仕事先で貰ったんだよ、対して高くもねぇが態々自分で買う程でもないし、それなら酒の肴に倭と一杯やりたくてな」

話しながら長くしなやかな褐色の指先が黒い煙草を一本持ち上げる、吸い口を唇で咥え、傍らに置いてあったマッチに火をつけると、一度深く息を吸い込み煙草に火を灯す。

市販品の安物には無い、軽やかで葉本来の重厚な香りがウィスキーに負けない香りの上書をする。白い煙をその薄い唇から細く吐き出しながら目の前の男は俺にも吸えと言うように視線を向ける。

『お前、俺が煙草を吸うと思ってんのか?』

「そりゃ普段は吸わねぇだろ、匂いが染みつくの倭嫌いだしな。でも折角の高い煙草だぜ?香りも深みも申し分なしだ、経験として吸ってくれよ。絶対似合うから。」

仕事柄、自分に香りが付くのを嫌う俺は煙草も香水も付けない。ストイックだと言われてしまえば否定はしないがそれでも誘う目の前の男は缶を俺の目の前に差し出した。

『はぁ…一本だけだぞ。他につまみは持ってこさせろ』

「やりぃ、ルームサービス頼んでやるよ♡」

諦めの悪い男とのくだらない攻防など時間の無駄だと一本ケースから取り出す。黒地にきちんと金色で刻印された洒落たソレを口に含み、火を付けようとマッチを手に取ったが先端が折れている物が最後の一本だったようで、くしゃっと手の中で丸めて屑篭に投げ捨てる。

『火がねぇな』

「え、まじ?じゃあそれもついでに頼むか」

俺の気が変わらないうちにとルームサービスを呼ぶための受話器に善正は手を伸ばす、まぁよくもこんなに甲斐甲斐しくなれるもんだと顔を眺めれば、善正の咥えていた煙草からボロリと灰がテーブルに落ち赤い光が露見する。

『おい、マッチはいい。これ貸せ』

「へ?え、どれ…」

呆けた表情でこちらを振り返る善正の顎を片手で掬い取り固定する、ソファから身を乗り出して火のついていない自分の煙草を緩く噛み、ぶれないように固定すると、チリチリと少しずつ燃え広がる相手の煙草に先端を押し付ける。

予想していなかった行動への動揺なのか、一瞬目を見開くもすぐさま状況を理解して目の前の金色の瞳が弧を描く。善正の掌も俺の顎を撫でるように固定しお互いの間で煙草がゆっくりと熱を移しあう。調子に乗り始めた相手の指先はそのまま首の筋を撫で、喉仏を擽るように肌の上を這う。金色の瞳に自分の赤い瞳が反射し、至近距離にある色男の嬉しそうな表情は俺以外ならば落ちていただろうなどと思う。

互いの煙草から煙が上がるのを確認するとそのまま腕を離して距離をあけ、再びソファに深く腰掛ける。数年ぶりに吸う煙草の香りは鼻腔を優しく通り抜け、上品な甘さと軽さの中に有る僅かな苦みが確かに香りの強いウィスキーに負けない最高のつまみになっていた。

煙を吐き、もう一度酒に手を伸ばせば目の前の男と視線が重なる。締りなくニコニコと嬉しそうにほほ笑む顔に若干の苛立ちを覚えにらみつける。そんな視線など全く気にする様子もなく善正は立ち上がり俺の隣の腰を下ろした。

『なんだ?』

「随分色っぽいことしてくれるじゃねぇの、お誘いだったりする?」

『冗談はその面だけにしとけ、俺がそんな事するわけねえだろ』

「良いじゃんか~~シガーキスとかエロいことしといてさぁ!」

隣で駄々をこねる40越えのおっさんに呆れと苛立ちから軽く顔面を殴りつける。痛い痛いとオーバーリアクションをする様子にこれ以上構ってもらちが明かないし五月蠅いだけだと判断し、半分ほど吸った煙草を灰皿に潰し残りの酒を流し込む。

『取りあえず書類は貰っていく、いい仕事だ。文句ねぇよ』

「だろ?俺がやったんだから当たり前だけどな。報酬はキスで良いぜ♡」

『うぜぇ。…成した仕事の額はきちんと受け取れ。他の奴らに示しがつかねぇだろ。』

「お前そういう所真面目だね、ならしっかり仕事したサービスでキスしてくれてもいいだろー?」

片思いをしてるという事実が伝わってから以前よりもこの手の強請りが多くなっていることに再度大きなため息を漏らす。振り向かせる、手に入れる、お前が好きだと余りにも真っすぐな言葉の数々は、普段こいつが女男相手に囁いている甘ったるくて回りくどい口説き文句とは違い、袖にするのが若干面倒だ。俺自身も善正以上の相棒は居ないという気持ちは有りながら恋愛的な感情とは無縁、理解しずらい思考回路故に気持ちの分析に手を焼く日が増えた。だが決して不快だと思わないのだから切り捨てる事も出来ず側に置いている。

『…次の仕事の納期今回より早めるぞ。』

「…!いいぜ?お前の為なら最速で終わらしてやるさ」

『諦めが悪いなお前も;俺のどこが良いんだか』

「前にも言ったろ?お前のどこが好きで、可愛くて、カッコいいと思ってるのか、何時間だって話してやっていいんだぜ?」

『それは遠慮する、お前の話は長い』

「分かってるなら早く俺に落ち…」

言い終わる前に善正の胸倉を掴んで唇を重ねる、成り行きでも合わせればまだ数度目だが、薄めの唇は振れた瞬間に嬉しそうに角度を変え互いの唇の柔らかさを楽しむように押し付けられる。目を閉じながらも片手で器用に吸いかけの煙草の火を灰皿に押し付け、自由になった腕で俺の腰を緩く抱き寄せる。呼吸の為に少し唇を離すも舌を入れるような無粋な事はせず、小さくもう一回と了承もとらずに二度目のキスを交わす。この行為にどんな意味を見出しているのか、リップ音を立てて唇が解放されると至極満足そうに微笑んだ善正が見えた。

『満足したか?』

「勿論、最高だぜダーリン」

『なら今夜は解散だ、腹が減った。』

「お!ならモス寄って帰ろうぜ、勿論お前の家に」

『また家来る気か、食ったら帰れよ』

「上がって良いって事だよな?やりぃ」

『都合よく解釈しやがって』

楽しそうな善正の笑い声と俺の皮肉めいたため息を室内に響かせながら上着を羽織り店を後にする、外に出れば澄んだ空気のせいか入店する前よりも肌寒さを感じながらファーストフード店へ二人で歩を進める。いつか、この男の感情に俺の思考が追い付く日が来るのだろうかと、不確定な未来すら楽しむ様子の相棒の横顔に悟られないよう笑いを零した。